ニュークリエイション TVについて

ニュークリエイション TVについて

ひとつの言語ずつ、イエスの福音で世界を照らす。

あなたの名前を知っている愛。夜中もずっと心を照らす希望。両腕を広げてあなたを受け入れてくれる赦し。

世界にはまだ、イエスの素晴らしさと十字架で成し遂げてくれた業を知らない人がたくさんいます。この福音こそが、私たちを暗闇から光へと導いてくれるのです。

だからこそ、私たちは世界中のさまざまな言語で福音を伝える使命を持っています。もっと多くの人が、神の大きな愛を体験できるようにです!

イエスは、暗闇から光へと導いてくれる

病の超自然的な癒し、依存症からの解放、人間関係の回復。世界中の人々から、イエスに出会って人生が変えられたという声が絶えず私たちの元に届いています。

国を越えて、デジタルやテレビ放送を通して広がる影響を目の当たりにし、私たちはこの働きをさらに続けていく決意を強めています。

そして、まだこれからイエスに出会うべき人がたくさんいると信じています!

世界中にある、ニュークリエイションTVが手を差し伸べている場所

ニュークリエイションチャーチの世界宣教の担い手として、私たちはジョセフ・プリンス牧師のミニストリーを通して、より多くの人がイエスに出会えるようサポートしています。

私たちの働き

19

の異なる言語で伝えられる福音

190+

以上の国と地域で放送・配信されているニュークリエイションTV

今日、イエスと彼のすばらしい恵みに出会い、福音の光であなたの人生を照らしてもらいましょう!

ジョセフ・プリンス牧師&ウェンディ・プリンスについて

恵みの革命を導く先駆者

20年以上にわたるフルタイムの牧会経験を持つジョセフ・プリンス牧師は、現在、書籍や教材、テレビミニストリーを通して、世界中で恵みの福音を伝える先駆者です。

『The Power of Right Believing (正しい信仰の力)』『Destined To Reign (治めるように定められた)』『Unmerited Favor (無償の恵み)』などのベストセラーの著者であるプリンス牧師は、国際的にも高く評価されるカンファレンス講演者でもあります。大胆にイエスの純粋な福音を説き、世界中の教会指導者に影響を与えてきました。神の言葉を新鮮で実践的、かつ啓示的に教え、常にイエスを明らかにするスタイルで知られています。ユーモアあふれるダイナミックで魅力的なメッセージは、日々のテレビ番組を視聴する幅広い層の人々にも親しまれています。現在、北米、ヨーロッパ、アフリカ、オーストラリア、イスラエルなどの世俗・クリスチャンの両ネットワークを通して、何百万世帯にも放送されています。

主が私に語られました。 「わたしの御子を 教会の中心に戻しなさい。」
ジョセフ・プリンス牧師

プリンス牧師のリーダーシップのもと、ニュークリエイションチャーチは創立以来100倍以上の成長を遂げました。現在も牧師として教会にボランティアで仕えています。

イエス・キリストという確かな土台の上にニュークリエイションチャーチの指導者層と会衆を築き上げたプリンス牧師は、今や世界中で神様から与えられた使命を積極的に果たしています。その使命とは、妥協をせずに、私たちに値しない神様の恵みを宣べ伝えることです。プリンス牧師は、テレビ放送や最新のメディア技術を通してイエス・キリストの福音を伝え、人々を励まし、力づけ、インスピレーションを与えることを目的とした国際的な非営利団体「ジョセフ・プリンス・ミニストリーズ」を率いています。

牧師、教師、カンファレンス講演者、著者としてのプリンス牧師のミニストリーは、今日も多くの人々の人生を変えています。人々を律法、罪の意識、非難の重いくびきから解放し、カルバリでのイエスの完了された業に目を向けさせることで、自由へと導いています。

プリンス牧師は、人々の中にある可能性を信じており、神の豊かな恵みと義の賜物を通して真の勝利を生きる方法を発見する手助けをすることに情熱を注いでいます。プリンス牧師の願いは、この世代のクリスチャンたちが新しい契約の恵みを理解し、天のお父さんによってどれほど祝福され、深く愛され、恵まれているかを実感できるように助けることです。

ウェンディ・プリンス

プリンス牧師の献身的な妻であり、ジェシカ・シェイナとジャスティン・デイビッドの母であるウェンディ・プリンスは、箴言31章に描かれた徳ある女性の理想を体現しています。プリンス牧師にとって常に愛と支えの源であり、子どもたちを主の道に沿って育てることに尽力しています。彼女の謙虚さ、温かさ、そして神と人々への真実の愛は、多くの人々の人生に触れ、助言を与える力となっています。

私の祈りは、教会として私たちがマリアのように、イエスの足元に座り、最も大切なことを行うことです。つまりそれは、イエスから学び、毎日新たにその愛と恵みを受け取ることです。
― ウェンディ・プリンス

ニュークリエイションチャーチについて

ニュークリエイションチャーチは、シンガポールを拠点とする地域教会です。

私たちのビジョンは、その人格の素晴らしさと御業の完全さの全てにおいて、イエスを見ることです。そして、福音を伝えることで、人々にイエスについて知ってもらうことです。

ニュークリエイションチャーチでは、私たちは神に愛されている存在だと信じています。神は、天で最も尊い存在であるご自身の御子イエスを、あなたと私のために惜しみなく与えてくださいました。この真理を心で受け取るとき、私たちは神の恵みによって内側から変えられていきます。これこそが、「天のお父さんである神の愛と恵みの中で生きる」ということの美しさです!

ジョセフ・プリンス牧師は、ニュークリエイションチャーチで定期的にメッセージを自発的にシェアしており、そのキリスト中心のメッセージは、毎日世界中の何百万人もの人々に届けられています。

非提携声明

当ウェブサイトや公式のやり取りで明らかに記載されている場合を除き、ニュークリエイションチャーチは、国内外を問わず、いかなる教会、宣教団体、牧師、組織、運動、デジタルプラットフォームとも提携していません。ニュークリエイションチャーチ(およびジョセフ・プリンス牧師)と提携していると主張する個人、教会、団体、グループがあったとしても、それは当教会の承知や許可なしに行われているものであり、当教会を代表するものではありません。

もし、当教会(およびジョセフ・プリンス牧師)との提携や承認を主張し、その主張を用いて資金を集めたり、イベントを宣伝したりしている個人、教会、団体、グループを見かけた場合は、直ちにこちらまでご連絡ください

ニュークリエイションチャーチについてさらに詳しく知りたい方は、こちらをクリックしてください。

私たちの信仰について

ニュークリエーションチャーチは、シンガポールを拠点とする地域教会です。私たちのビジョンは、イエス・キリストの美しい人格と御業の完全さを悟り、福音を広めることでイエスを多くの人に知ってもらうことです。

以下では、私たちの信仰の土台や、罪への勝利、恵みの力、悔い改め、神の備え、聖餐式、そして神が私たちを召してくれた教会の一致について、信条としてまとめています。

また、「真の恵みと偽りの恵み」についての記事もぜひ読んでください。

私たちは使徒信条とニカイア信条を信じ、告白します。

聖書は神のことばとして絶対の権威があることを信じます。聖書全体が神によって霊感を受けて書かれたものであり、健全な教義の揺るぎない土台であることを信じます。(第二テモテ 3:16–17)

私たちは、唯一の神が、永遠に三位一体(父・子・聖霊)で存在することを信じます。(マタイ 3:16–17、第二コリント13:14、エペソ 4:4–6)

私たちは、主イエス・キリストが神であり、処女から誕生し、罪なき生涯を送り、癒しや奇跡を行う力を持ち、十字架での犠牲による贖いの死、肉体の復活、そして大祭司・仲介者として父の右の座に上られたことを信じます。イエス・キリストは約束どおり再臨することを信じます。(ヨハネ 14:2–3、マタイ 24:30)

水の洗礼は、信仰の外的な表れであり、信じる者が主イエスの死、埋葬、復活にあずかっていることを示すものです。(使徒 8:12、ローマ 6:4)

聖霊は私たちの助け主であり、私たちの生活のすべての分野を導きます。(ヨハネ 14:26)私たちは、聖霊のバプテスマが現れる印としての霊による祈りを信じます。(使徒 2:1–4)また、聖霊の九つの賜物と、聖霊の実の九つの性質を信じます。(第一コリント 12:7–11、ガラテヤ 5:22–23)

神はこの世を愛するがゆえにひとり子イエスを与え、イエスを信じる者が永遠のいのちを得るようにしたという、良い知らせ(福音)を信じます。神がひとり子を世に送ったのは、世を裁くためではなく、世を救うためです。(ヨハネ 3:16–17)私たちは、この恵みの福音を国々に伝える使命があると信じます。(使徒 20:24)

イエスは道であり、真理であり、いのちです。(ヨハネ 14:6)主イエスの名を呼び求める者は皆んな救われます。(ローマ 10:13)聖書には、「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」と書かれています。(ローマ 10:9–10)

私たちは、罪が私たちを聖なる神から引き離したこと、そして罪の報いは死であることを信じます。ローマ人への手紙 6:23 にある通り、「罪の報酬は死です」。しかし、朗報はこれで終わりではないことです。この聖書箇所の続きに「しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」とあります。キリストにあって、私たちは「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです」(エペソ 1:7)また聖書は、「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」(第一ヨハネ 1:9)とも教えています。ですから、イエス・キリストを信じる者は、自分の罪を認め、救い主の必要性を自覚し、すべての罪の赦しを受け入れる個人的な決断をする必要があります。

私たちは、イエス・キリストによって生まれ変わった者として、罪の支配に打ち勝ち、「主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長しますように」(コロサイ 1:10)と呼ばれています。また、罪には破壊的な結果が必ず伴うことを信じます。これは信じる者に対する神の罰ではなく、罪そのものがもたらす破壊的な結果を意味します。例えば、信じる者が自由意志で自分の手を火の中に入れた場合、被害はその人自身の選択によるものであり、神の罰ではないということです。

私たちは、恵みは真の信じる者に、神に背く生き方や世の欲望を拒むことを教える教師であると信じます。聖書にはっきりとこう書かれています。「実に、すべての人に救いをもたらす 神の恵み が現れたのです。その恵みは、 私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し 」(テトス 2:11–12)と書いてある通りです。恵みは罪を正当化する免罪符ではありません。自分の生き方を正当化するために恵みを間違って使う人は、恵みの福音を理解しておらず、私たちの信仰を表していません。

また、私たちは、恵みの福音を正しく理解し、キリストにある義のアイデンティティーを信じ、確信している者には、罪が支配することはないと信じます。ローマ人への手紙 6:8,12–14 にこうあります。「私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています…ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。 罪があなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。」

罪があなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。 (ローマ人への手紙 6:14)

私たちは、恵みの福音の実は、罪に打ち勝つ生き方、美しい結婚、力強い家庭、惜しみない寛大さ、人生のあらゆる分野で神に栄光を帰すような生まれ変わった信じる者を生むと信じます。ローマ人への手紙 5:17 にはこうあります。 「恵みと義の賜物をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するようになるのです。」

また、私たちは、本当に生まれ変わった信じる者は、罪を正当化する言い訳を探さないと信じます。もしイエスの愛と犠牲によって心が変えられたなら、どうして罪を求めることができるのでしょうか。本来であれば、罪や恐れ、罪悪感、自責の牢獄から抜け出す道を探すものです。私たちは、神の素晴らしい恵みと無条件の愛を宣べ伝えるほど、世界中から証しの数々が届くのを目の当たりにしてきました。それは、ポルノ、アルコール依存、ドラッグ、性的不品行の問題から解放された人々の証です。これこそ恵みの福音の力です。イエスが宣べ伝えられると、罪は人々の人生を支配する力を失い、真の悔い改めが起こります。

私たちは、今日、恵みの新しい契約のもとにあると信じます。「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである」(ヨハネ 1:17)律法の古い契約はしもべを通して与えられましたが、恵みと真理は御子を通して来ました。律法は、人のあるべき姿を示します。恵みは、神が人に対してどのような方かを明らかにします。モーセの最初の奇跡では、水を血に変え、死をもたらしました。一方、恵みの最初の奇跡では、イエスは水をぶどう酒に変え、いのちと喜びをもたらしました。「文字は殺し、御霊は生かすからです」(第二コリント 3:6)律法のもとでは、神は霊的に破産した人に義を求めます。しかし、恵みのもとでは、神は義を贈り物として与えてくださいます。(第二コリント 5:21、ローマ 5:17)

私たちは、カルバリ山の十字架を通して、イエスを主と救い主として信じるすべての人が、恵みの新しい契約のもとにあると信じます。律法のもとでは、神は罪人を決して無罪とせず、その罪を三代四代にわたって報いるとされました(出エジプト 34:7)しかし、恵みのもとでは、神はこう言われます。「わたしが彼らの不義にあわれみをかけ、 もはや彼らの罪を思い起こさないからだ」(ヘブル 8:12)律法は人を中心としていますが、恵みはイエスを中心としています。律法は、義と認められるために 人が成し遂げなければならないこと に焦点を当てます。恵みは、義と認められるために イエスが成し遂げてくれたこと に完全に焦点を当てます。律法のもとでは、私たちは従わないことで資格を失います。恵みのもとでは、 イエスの従順さが資格を与えてくれました。 律法のもとでは、正しい行いをしたときに義とされます。恵みのもとでは、正しく信じたときに義とされるのです。(ローマ 4:3–8)

律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(ヨハネの福音書 1:17)

私たちは、十戒は聖く、公正で、栄光に満ち、良いものであると信じ、神の完全な律法に最大の尊敬と敬意を持っています。十戒はその基準が非常に純粋で、聖なる要求が非常に厳格であるため、ガラテヤ 3:11 にあるように、「律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです」と信じます。神の前で義とされるのは、キリストへの信仰によってのみです:「しかし、 人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められる と知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。…しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。 今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」 (ガラテヤ 2:16,19–21)

私たちは、主の恵みの力によって変えられた信じる者は、十戒が教える道徳的な善さや価値、徳を守りたいと願うと信じます。真の恵みは、真の聖さを生み出します。使徒パウロもこう宣言しています。「愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ、愛は律法の要求を満たすものです」(ローマ 13:10)

また、私たちは、恵みのもとにある神の民は、文字通りに律法を守るだけでなく、キリストにあってそれらの要求を超えたことをすると信じます。たとえば、律法は「姦淫を犯すな」と命じることしかできません。外面的にはその律法を守ることはできますが、内面では配偶者を愛していない場合があることもあり得ます。恵みは単に外面の行動を正すだけでなく、より深いところで内面を変えます。それは、人がキリストが教会を愛されたように妻を愛し、十字架の力に基づいて美しい結婚を築くことを教えてくれます。これこそ、神の恵みの人を変える力です。道徳的に神に栄光を帰す生き方を愛し、実践する力は、まず私たち自身が主の最も親しい愛を体験することから生まれます。(第一 ヨハネ4:19)神の惜しみない恵みを体験した人は、隣人のものを欲しがらないだけでなく、隣人や地域に惜しみなく与える力も持つようになります。このことは、ザアカイが神の恵みを体験した後に起こったことです。彼は言いました。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します」(ルカ 19:8)

私たちは、「悔い改め」という言葉の本来の意味を理解することが非常に重要であると信じます。単に外面的な懺悔の習慣だけを追うのではなく、ギリシャ語の metanoia に込められた意味、すなわち「心の変化」を理解することが大切です。真の悔い改めは、単なる外面的な表現を超えて、心の奥深くに行き届きます。外見上は悔い改めているように見え、涙を流している人であっても、罪に対する壁の打ち破りを経験していない場合があります。本当の悔い改め(metanoia)とは、心からの悔い改め、過ちの自覚、そして罪から離れ、十字架の啓示によって恵みに立ち返ろうとする内なる真の欲望を指します。(第二コリント 7:9–10)

私たちは、真の悔い改めと罪からの解放は、 主イエス・キリストが成し遂げられた完全な御業を信じる信仰 によってのみ与えられると信じます。仮に信仰者が罪に陥ってしまい、もがいていたら、大切なのは、心を新たにし、信仰をもってその罪もすでにイエスの体が代わりに罰を受けてくれたと信じ、神の赦し、恵み、義を新たに受け取ることをはじめ、その弱みを乗り越えることです。失敗をしてしまった者には、主から離れるのではなく、主のもとに立ち帰るよう、私たちは励まします。イエス・キリストこそが、罪の破壊的な連鎖からの真の解決であり、答えであり、勝利なのです。(ローマ5:17)

もし一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら、なおさらのこと、恵みと義の賜物をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するようになるのです。
(ローマ人への手紙 5:17)

私たちは、漸進的聖化を信じます。イエスを主として、また、救い主として受け入れた瞬間、私たちは赦され、きよめられ、義において完全とされ、救われました。また、キリストにあって聖別されました。(ヘブル 10:10)しかし、キリストにおける私たちの聖化の啓示と現れは、段階的に進むものであることを理解する必要があります。信じる者として、私たちは義をもっと得ることはできませんが、生活の仕方においてより聖化され、より聖くなることはできます。言い換えると、信じる者は十字架におけるイエスの血によって一度の行為で義とされましたが、聖化はクリスチャンとしての成長の中で継続して進むのです。恵みの中で、そして、主との関係の中で成長し、神のことばの恵みの水で洗われる過程の中で、私たちは聖化と聖さにおいて成長します。だからこそ、ヘブル人への手紙の著者は、私たちが「永遠に完成された」にもかかわらず、「聖別されつつある」と述べているのです。(ヘブル 10:14)

私たちは、「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です」(第二テモテ 3:16)と書いてあることを信じます。そのため、行い、規律、戒め、正しい生活を軽視するような偽りの『恵みの教え』には注意しています。赦しの啓示は、正しい生き方を妨げるものではなく、むしろ正しい生き方を実現する原動力となります。しかし、神が私たちを正すとき、悲劇的な事故や病気、病をもたらすことによって正すことは決してないということを理解する必要があります。聖書にはこう書かれています。「父がいとしい子を叱るように、 主は愛する者を叱る」(箴言 3:12)

私たちは、天のお父さんである神の心は、地上の親が子どもに最善を与えたいと思うように、子どもたちの必要を満たしたいという思いだと信じます。主イエスは山上の垂訓で、お父さんである神の心をこう表現されました。 「ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。 あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます 」(マタイ 6:31–32)天のお父さんは、子ども達が豊かに必要を満たされ、良い成功を経験することを望んでいます。(第二コリント9:8、ヨシュア 1:8、詩篇 1:1–3)しかし、天のお父さんである神は、子どもたちが物質主義に囚われたり、お金の追求に執着したりすることを望んでいません(伝道者の書 5:10、マタイ 6:24)

使徒パウロは、テモテへの手紙で次のように明確に述べています。「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。 衣食があれば、それで満足すべきです。 金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。 金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。 ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。 11 しかし、神の人よ。あなたはこれらのことを避け、義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和を追い求めなさい」(1テモテ 6:6–11)私たちは、すべてのことにおいてまず主イエスを求め、人生の中心をお金や世の成功ではなく主ご自身に置くことが最も大切だと信じます。主に信頼を置くとき、主の祝福は後からついてきます。また、私たちは、主からの祝福、繁栄、良い成功は単なる物質的・経済的なものではなく、全人的なものであり、まず魂の繁栄から始まると信じます(第三ヨハネ 1:2)

愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。(3 ヨハネの手紙 1:2)

私たちは、恵みのもとにある人々は寛大な心を持ち、時間やエネルギー、財を惜しみなく用いて、恵まれない人々を支え、愛し、気にかけると信じます。教会としても、私たちは地域コミュニティーの草の根の取り組みに積極的に参加し、惜しみなく支援しています。また、世界中の人道支援活動にも寄付を行っています。経済的に恵まれている方々には、使徒パウロの教えに従うことを勧めます。「今の世で富んでいる人たちに命じなさい。高慢にならず、頼りにならない富にではなく、むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置き、善を行い、立派な行いに富み、惜しみなく施し、喜んで分け与え、来たるべき世において立派な土台となるものを自分自身のために蓄え、まことのいのちを得るように命じなさい」(1テモテ 6:17–19)私たちは「繁栄の福音」と呼ばれる教えには従いません。また、すべての信じる者が大金持ちになると教えることもありません。貪欲や物質主義、金銭愛を奨励することもありません。その代わりに、私たち信じる者は、他者を祝福するために、祝福されると教えます。(創世記 12:3、第二コリント 9:8)

私たちは、聖餐は主の死を覚えるためのものであると信じ、主を思い起こしながら聖餐にあずかります。(第一コリント 11:24–25)聖餐は、ギリシャ語の eucharistia に由来し、「感謝を捧げる」という意味を持ちます。十字架において、イザヤ書 53:5 にあるように、「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた」とあります。信仰によって聖餐にあずかるとき、私たちは主の死を覚え敬うだけでなく、十字架で成し遂げられたすべて—健康、完全さ、平安—を新たに受け取ることができます。私たちは詩篇の著者とともに、感謝の心でこう宣言します。「わがたましいよ、主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ、主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は あなたのすべての咎を赦し あなたのすべての病を癒やし あなたのいのちを穴から贖われる。主は あなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ、あなたの一生を 良いもので満ち足らせる。あなたの若さは鷲のように新しくなる」(詩篇 103:1–5)

私たちは、使徒の働きの書に見える初代教会の伝統にならい、毎週日曜日、キリストの一致した体として共同で聖餐にあずかることを信じます。聖書にはこう書かれています。「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった」(使徒 20:7)

私たちは、使徒の働きの書にある初代教会のように、「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた」(使徒 2:42)とあるように生きるよう呼ばれていると信じます。初代教会は、聖餐の意義や重要性、力を深く理解していたため、彼らはそれをたまに行うのではなく、繰り返し行っていたのです。実際、聖書にはこう書かれています。「そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし...」(使徒 2:46)

そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし...(使徒の働き 2:46)

私たちは、教会の礼拝であれ、初代教会のように「家から家へ」行う場合であれ(使徒 2:46)、聖餐にあずかるときは自分自身を省み、主の晩餐にふさわしい態度であずかることが大切だと信じます。主の晩餐にふさわしい態度であずかるとは、イエスが成し遂げられた業を理解し、単なる食事ではなく、聖なるものとしてあずかることを意味します。信仰を主イエスに集中させ、パンにあずかるときには、私たちの体が全くされるためにイエスの体が裂かれたことを覚えるのです。(第一コリント 11:24、イザヤ 53:5)また、杯にあずかるときには、すべての罪の赦しのためにイエスの血が流されたことを覚えることを意味します。(マタイ 26:28、コロサイ 2:13)

私たちは、教会の歴史の中でさまざまなキリスト教の宗派により実践や信仰に違いがあるとしても、私たちはキリストの体として調和の中で交わり、使徒信条やニカイア信条で示された核心的なキリスト教の教義を中心に一致することができると信じます。(第一 コリント12:12、エペソ 4:3)

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